りすきる 23歳 川崎市 大学生
僕の文化的初体験は小学生時代に読んでいたコミックボンボンです。
コミックボンボンを読んでいたことでガンダムにハマり、そこから
スパロボをやり、スパロボをやることで様々なロボットアニメに
興味を持ち、毎週ツタヤにビデオを借りに行きました。
そうやって見ていたアニメの中でも一番影響を受けたのはやはり
エヴァンゲリオンです。小学校高学年の僕にはエヴァの語ろうと
していたメッセージなんかはサッパリ解りませんでしたが、
解らなかったことで当時普及し始めていたインターネットを使い
エヴァについて調べ、そこからオタクの世界や批評の世界を知ること
になりました。
その後も色々な物に影響を受けてきましたが、今Lifeを聴いてるのは
元はといえばあの頃コミックボンボンを読んでたからです。
同年代の人には似たような経験をしたことがあると思います。
同年代ではなくても、20代から30代前半のオタクの人は
少なからずボンボンに影響を受けてるんじゃないかなと。
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くまぞう 首都圏在住 28歳 会社員
私の文化的初体験ですが、当時は文化では無かったと
思うのですが携帯電話の初体験です。
16歳の高校1年の時に、当時出始めたドコモのi mode携帯でした。
周りの友人はPHSが多かったのですが、当時父親がドコモの携帯を
使っていたということで自分は半ば強制的に携帯となりました。
当時PCを使ったインターネットは56kとはいえ割と使っていたの
ですが、携帯でインターネットが使えるということは画期的でした。
それから数年後、理系の大学に進み今ではスマホ向けアプリの
開発ディレクターをやっています。
このように当時は文化的では無い事でも、今となっては立派な一つの
文化に変わった例というのもあるのではないでしょうか。
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黄慈権(ファン・チャゴン) フリーライター
僕の文化的初体験は、「たほいや」や「征服王」といった、
90年代前半、フジテレビの深夜番組だったと思います。
中でも深夜特番「46億年の100大ニュース」は、
かなり影響を受けています。
たしか、中1か中2のとき、夜中眠れなくてテレビ
を付けて...、面白くてすぐにビデオ録画した記憶があります。
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森末潤一 名古屋市
私は1973年生まれの現在39歳です。
大学生時代は、93年から97年となります。
私にとって重要な文化的な体験として「パリペキンレコード」との
出会いがあります。大学生になった93年だったと記憶していますが、
クロスビート誌において佐々木敦さんがコラムで、特殊レコード店の
「パリペキンレコード」を紹介しており、それをきっかけとして
「パリペキンレコード」を訪れたことは私にとって、重要な転機に
なったと思います。
その体験で得たことを要約すると、「録音物にしても、印刷物にしても、
一般的な流通経路を経ない自主制作物が世の中には多数存在するのだ」
となるかと思います。
現在は、インターネットの普及により、よりマイナーな狭い範囲の趣味
を追い求めていっても、大抵のものは検索によりたどり着けることだと
思います。
ただ、パリペキンレコードで体験したのは、マイナーな自主制作商品のみ
で埋め尽くされた部屋に身を置くことであり、現在ではなかなか体験する
のが難しいことかもしれません。
今から振り返り思うに、90年代半ばは、インターネット時代の直前に
あたり、レコード店や書店といった実店舗が文化的情報の集積場所として
大きな存在感を持っていた最後の時代であったように思います。
私個人の体験に戻れば、パリペキンレコードを訪問したことがきっかけ
となりショートカットの熱心な読者になり、その後エスプレッソを
製作することに繋がっていったと思います。
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今夜は匿名でお願いします 40代男性
私にとっての文化的で、かけがえのない貴重な体験は、
ストリップの追っかけをやっていた事です。
ストリップ劇場は減少の一途をたどり、現在、日本国内で
現存するのは数十館、確実に百館以下でしょう。ストリッパー、
つまり踊り子さんは基本的に十日間を区切りで日本全国を巡業しています。
業界内や劇場ごとの決まり事、先輩後輩の上下関係などは、例えば演劇界
の劇場や落語界の寄席とも似ていると思います。踊り子さんも一人で仕事
が出来る訳ではありません。劇場の従業員さんや、振付の先生、衣装屋さん
など、多くの人の協力なしにステージは成立しません。
お客さんも、年齢や職業は本当に様々で、同じ踊り子さんのファンだったり、
旅先の劇場で偶然に知り合ったりで、仕事以外の事なのですが、振り返ると
驚くほどの数の人と知り合いになりました。踊り子さんの周年のお祝いや、
引退の時の送り出しなどを、お客さん同士で協力して行ったり、食事会や
飲み会など、交流の機会も沢山ありました。
決して良い事ばかりではなく、悲しい事も何度かありましたが、様々な人と
様々な場面で触れ合えた事は、今の私にとっては、かけがえのない財産です。
人それぞれ、何でもいいと思うのですが、私の場合、そのひとつが、
ストリップだったという事だと思います。
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きみどり 東京都 大学四年
私の文化的初体験は「青春パンクブーム」です。
私は現在22才なのですが、中学生の時に起こっていた
「青春パンクブーム」にはまり、文化系な人間になっていった記憶が
あります。特に銀杏BOYZの峯田君を通して、みうらじゅんさんや、
リリーフランキーさんなどの所謂「サブカル」な人を知り、そこから現在も
活躍している町山智浩さんや吉田豪さんの本を読むようになりました。
なので私の文化的初体験は「青春パンクブーム」だと言えると思います。
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アンチエイジング 37歳
僕の文化系初体験は、いくつか思いつくのでABCで挙げていきます。
Aは、小学校3年生くらいだったか、ファミ通の創刊号からです。
ゲームと全く関係ない、白黒ページのネタコーナーの面白さ、
掲載されていた漫画、鈴木みそ氏の大人の世界を描いた
「あんたっちゃぶる」や「おとなのしくみ」などが楽しみで、
これがおそらく文化系初体験なんだと思います。
Bは、高校生になった頃に、当時フジテレビで深夜に放送していた
「BEAT UK」です。よくわからないけど、今まで出会ったことのない
「カッコイイ」洋楽が次々と流れていく番組を観て、興奮してました。
この番組をきっかけにバンドを始め、大学でバンドサークルに入り、
今の自分を形作っていった気がします。また、これをきっかけに深夜番組
にハマり、「三宅裕司の天下御免ね!」などを好んで観ていました。
Cは、この番組、文化系トークラジオLifeに出会ったことです。
Lifeを知ったのは、2年ほど前にiPodを買って、「面白いポッドキャスト
はないかなあ」と探していたときでした。初めて聴いたときのテーマは、
「クルマ社会の過去・現在・未来」でした。当時、クルマの維持費等の
負担を計算し、妻と相談して、クルマを持たない生活を選択したばかり
だったので、特別に興味深く聴きました。それ以来、この番組にハマり、
社会学の本や出演者の皆さんの本を読みあさるようになりました。
現在、仲間と勉強会やワールドカフェ、旅行などの企画をする社会人
サークルを運営していますが、Lifeで得た知識や紹介された書籍からの
知識をもとにして、企画案ができたりします。
おかげで、放送大学の社会科学系のテキストを購入し、放送を視聴する
ようになりました。もともと、社会的なネタが大好きだったこともあり
ますが、それに拍車がかかり、テニスサークル出身の文化系に理解の
余り無いリア充妻から呆れられています。
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シリウス 栃木県 25歳
自分が言論の世界に興味を持つきっかけが姜尚中さんと宮崎哲弥さんの
メディアでの活躍でした。10年くらい前の自分は評論やアカデミズムの本
を読んでいなかったので、メディアでの彼らの(特に朝生、アクセス)解説は
テレビや紙媒体の大方の意見と違うものが多く新鮮でした。
メディアに多く露出することは時に自分の首を絞めかねないですが、
一方で言論やアカデミズムに興味がないまたは知らない層に届くことも
また事実だと思います。また上記の二人がネットでの露出に消極的なのは
今のネット時代の若手の言論人との比較で考えると興味深いかもしれません。
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蛇色ディップスイッチ 40歳 富山県 農業法人勤務
予告編のログイン話が懐かしく、思わず初メールさせてもらいます
(ちなみに私は堀井雄二さんの連載『虹色ディップスイッチ』と当時騒ぎ
になり始めたAIDSなんかを取り上げていた『オールザットウルトラ科学』
が好きでいつも読んでいました)。
さて、今回のテーマですが、私にとっての文化的初体験は、
永井均さんの一連の著作でしょうか。ビジネス本や自己啓発本に出てきそうな
「哲学」のイメージとも、また当時その余韻が残っていたいわゆる現代思想・
哲学とも全く異なる「哲学」が存在することを知っただけで、何か自分の
世界が変わったように感じたものです。もっとも、書かれた内容がまるで
理解できていなかったことに気付くのはずいぶん後になってからなので、
私は長い間自分の錯覚に酔っていたに過ぎないかもしれないのですが...。
でも『ウィトゲンシュタイン入門』などは、つい今でも読み返したりする
こともあります。
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匿名 1957年生まれ
中学1年の時読んだ萩尾望都の短編「あそび玉」。
少女マンガの変革期が思春期と重なって、すっかりやられ...
今もマンガを描いております。
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嘉島唯
私の文化的初体験はスペースシャワーTVでした。
レッチリのかっこよさに衝撃を受け、ロキノン系にハマり、
ライブハウスとタワレコに通ったのが中学二年生でした。
でも、本来の文化的初体験は、
多分小学生の時のHUNTER×HUNTERかもしれません。
BLに手を出し、乙女ロードに通い、コマ割の意味を考え、
腐の文脈を読んでいました。でも、時代はオタク解禁前夜。
オタクであることがバレると、スクールカーストの底辺になる。
加えてオタクに漂う禁忌感と罪の意識!そこで、青春と引き換えに
オタクを断念したのでした。
でも、今はオタク文化が開花しています。
18歳の女子大生に、「中高は何に夢中だった?」と、質問したところ、
即答で「BL!ニコ生!」と答えられた時に、時代は変わったなぁ、
と思いました。ネットが普及して、オタク文化が花開いた今は、
文化的初体験の方法も、意味も、体系も、変わってきてるのかも
しれません。
ちなみに、文化的初体験Cは、
東浩紀さんと「動物化するポストモダン」だったと思います。
かつて、オタクの踏み絵を踏んだ、中学生の自分の供養的な存在でした。
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おのじ 世田谷区 25歳
私の文化的初体験は、12年前に加入したスカパーで一昔前の映画や
ドラマを観たことです。普通に地上波テレビを観ていたら、出会うこと
はなかったであろう数々の"名作"を観ることができました。
その"名作"の中で私が最も影響を受けたのは、刑事ドラマの名作
『特捜最前線』です。『太陽にほえろ!』や『Gメン75』と比べると、
後年語られることは少ないですが、この『特捜最前線』は刑事ドラマとして
だけではなく、人間ドラマとしても傑作です。
特捜は地味なストーリーが多いですが、"人間の弱さ"に焦点を当てた
優れた脚本が多く存在します。
未だに忘れられないのは、二谷英明演ずる神代警視正のセリフ
『人が生きていくために必要なモノに愛情もあるが、憎しみもある。
人を憎むことで強く生きられるということもあるんだ』...が忘れられません。
美辞麗句で飾らない"人間の本質"をそこに見たような気がします。
水戸黄門のような勧善懲悪モノが受け入れられなくなったのは、
明らかにこのドラマの影響だと思います(笑)
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むばんほう 荒川区 48歳 男性 会社員
1964年生まれのアイドル大好きおじさんです。
初体験はまきばゆみさんです。(70年代のマイナーアイドルです。)
いじめられっ子だったのでメジャーどころに背を向けて生きてきました。
そろそろ思い切りメジャーなAKBあたりに転んでも許されるかなと
思っています。
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元ラジオネーム stilllife (スティルライフ) こと
小高えま 30歳 神奈川県 翻訳業
82年、東京生まれ文化系育ちです。
小学生のころ、ジャンプ、なかよし、りぼん、少コミなども経由しつつ、
ゲーム雑誌マルカツスーパーファミコンからコンプRPG、
電撃スーパーファミコン、スニーカー文庫、月刊ASUKA、季刊CAIN(カイン)
ほかも読む。ゲームもマリオ一作目からやってました。
子供向けのギリシア神話や、星の王子様、ロアルド・ダールなどの児童文学も。
テーブルトークRPGに憧れながら、友達がいなくて独り遊びし、あまつさえ
自由研究でプレイレポート発表しました。
本は何でも買ってくれる親、6歳上の姉がいたことなどで、メジャーから
マイナーなものまで幅広く触れる。
自分にとって文化系の「A」体験といえば、フジテレビ「ウゴウゴルーガ」と
「ポンキッキーズ」。BOSEさんを好きになって、ブギーバックの入った
『スチャダラ外伝』買ったのが初めてのCD。
中学、ロッキング・オン・ジャパンと出会い、また、演劇部に入部。
文化系人生が決定的に。先輩やコーチが、その後演劇界や音楽界でも活躍する
ような人達で、刺激を受ける。芝居に使われた曲も、ムーンライダーズから
ケミカルブラザーズまで多様。この時、エヴァや少女革命ウテナ、
吉本の渋谷公園通り劇場なども通る。
高校の時は下北ヴィレッジヴァンガードの影響も多分に受ける。
コミックキュー的な漫画にも傾倒。
両親が長年の夢であったアメリカ移住を遂げ、外国に興味があった自分も
ついて行く。到着から数日で9.11が起こり、反テロを掲げたブッシュ政権政策を
マイノリティー市民として体験し、憤り、無力感、様々な想いにかられる。
ホームシックからテキストサイト、ブログ、SNS中毒に。
長引くアメリカ大学生活に疲れ、引きこもってた時に見たタイガー&ドラゴンに
癒され、落語にはまり、日本で半年ほど落語家追っかけの日々を送る。
少し後にTBSラジオのLifeやストリーム、タマフルなどにも出会い、
Life言論にかぶれて卒論のテーマは社会学目線で見る落語の分析(英語で)。
帰国後、縁あってTBSで落語関連の仕事をする。この仕事は請負だったので、
正社員職を探していたところ、「オタクで英語出来て文系知識もあるやつ求む」
という誘いを受けて、現在の翻訳事務所に。主にゲームの翻訳をチームで
やってます。そんな今の自分がいるのは完全にこういった文化体験があっての
ことです。結婚相手もネットで出会った文系研究者です。なれそめも音楽の話
から岡崎京子がどうこうとか90年代想い出話からスタートしました。
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ウェルダン穂積(芸人)33歳
NHKの「日本のジレンマ」でLifeの論客でもある宇野常寛さんが
丸山真男の「日本の思想」を連呼していたので、
そんだけ言うなら読んでやろうじゃないの!ということで購入して
ちびちび読んでいます。こういうところから結果的に文化に繋げているって
考えると、ああいう番組の価値って素晴らしいです。
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東京都/1974生/兼業主婦
10歳くらいで初めてラジオを手に入れました。
確かTBSラジオで...19:00か20:00台にやっていた、曜日ごとにジャンルを
分けたランキング番組をチェックし始め、これで、「ジャンル」という
概念を知ったように思います。
ニューミュージックや歌謡曲、演歌などの分けだったでしょうか。
確か金曜日が総合ランキングだった。
おかげさまで、中学に入って光GENJIが流行り出し、周囲の女子が
「かぁくんカッコイー」と下敷きを買ったりしている横で
「デビュー曲は飛鳥涼が作詞作曲えおねェ...」と黙考することに
なってましたね。
このときに私の人生の道ははっきりと別れた、と思います。
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横浜神童 30歳、男
Lifeで久しぶりの文化系な話題で楽しみにしています。
私を形づくった文化体験は「グランジ」です。
洋楽に詳しい近所のお兄さんに憧れていた私は、
中学1年生の時に一人HMVに行き、その時プッシュされていた
The Smashing Pumpkinsのアルバムを購入しました。
人生で2枚目に買ったCDだったと思います。(1枚目はEagles)
中学生ながら邦楽はダサいと感じていて、自分に合うかっこよい
おしゃれな洋楽を探しているところでした。とはいえ、当時の私には
難解な曲が多く、最初は良さがわかりませんでした。
ただ、電車で1時間の通学路で毎日MDウォークマンで同じアルバムを
聴いていたら徐々に好きになり、スマパンのCDは全て買って聞く
ようになりました。
その後、グランジつながりからNirvanaを聴くようになりました。
Smells Like teen spiritを始めて聴いた時は、かっこよすぎてベッドの
上でのたうちまわりました。
学校の友達はGlayやLuna Seaなどのヴィジュアル系ロック好きしか
居なくて、さびしい思いをしたのと同時に、自分にしかわからない
世界を持っているという優越感も持っていました。
グランジにはまったことが、多かれ少なかれ今の自分に影響を
与えていると感じます。まず一つに、ひねくれた性格になったと思います。
曲自体が鬱々としてネガティブな内容だったということもありますし、
「自分だけが知っているという優越感」という快感を覚えたため、
あまり人と共感したりすることに興味を持たなくなったと思います。
また、邦楽を経ずに、洋楽から好きになった自分は、どこか日本文化を
外から見る癖がついたと思います。日本の今のチャートにでている曲を
聴くよりは、昭和歌謡を聴くし、スカイツリーやヒカリエ等の流行の
スポットに行くよりは、ブルーカラーの飲み屋街、立石で飲んだりと、
どこか海外から来た人が新鮮に思う日本という視点で日本文化を見て
しまいます。
また、一人だけの世界という感覚を持ったことにより、マイノリティや
一人で何かをしようとしている人に対して理解ができるようになったと
思います。一般的に「変な人」、と言われるような人でもこの人はこの人の
世界があってこうなっているんだろうな、と思えるようになったのは、
良い影響だったと思います。
今メールを書いていて、ラジオ番組や書籍が直接的な言葉をもって
その人の考え方に影響を与えるのはわかるけど、音楽、しかも、歌詞が
わからない洋楽が人の考え方に影響を与えるというのは、面白いなぁと
思いました。
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にぎりめしほうりなげお
私にとっての、一番大きな文化的初体験と言えるのは、
ファイル共有ソフトのWinMXです。
当時高校生だった私にとって、イリーガルながらも、無料で様々な
ジャンルに触れることの出来るこのソフトウェアは、間違いなく自分が
蓄積してきた文化的教養を大幅更新した存在でした。
例えば、音楽で言えば、当時洋楽ばかり聞いていた自分が日本語ラップ
を聴くようになったきっかけは間違いなく「無料」というのがありましたし、
洋ゲーも、同じように無料でなければ、興味を持っても、実際に触れるまで
はいかなかったと思います。
十年経った今、社会人の自分はどちらのコンテンツにもそれなりのお金を
払っています。しかし、WinMXが無ければ、そのどちらにもお金を払う事
は無いでしょう。
私の同世代のカルチャーは、リッチな表現もプアーな表現もどこかフラット
に取り入れている印象があるのですが、それはどちらも無料のものとして
初めからあったからなのかなー、と今は思っています。
その意味で、さらにフリー化が進んだ今の若者がどういったツールで
初体験を経験者しているかが興味があります。
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佐々木さん出演回は貴重 書店員 29歳
予告編で皆さんが熱く言っていたところの「A」→「B」→「C」の
流れで考えてみました。そうすると、自分にとっては
「兄の影響」→「新・真夜中の王国」→「STUDIO VOICE」
というのがあるなと思いました。
小学校中学年までマンガばかり読み、いっさい活字に触れていなかった
僕が、今や本屋で働いてしまうまでに読書好きになったのは、ひとつ上の
兄から借りて読んだ推理小説がきっかけでした。当時、主にノベルス系で
「新本格ミステリ」という若手のミステリ作家のムーブメントが盛り上がって
いて、これらを兄から借りたり教えられたりする中で、うっかりミステリ・
マニアへの階段を上り始めてしまい、中学以降は完全に本の虫というか、
文化系のレールへ一直線でした。
高校に入ってから、活字以外の文化的世界への視野を広げてくれたのが、
BS放送でやっていた「新・真夜中の王国」。放送開始は1996年、
けれども観始めたのが2000年以降なので、後期のファンということに
なるのですが、映画監督、俳優、ミュージシャン、美術家、写真家、作家など、
多彩なジャンルの方々のインタビューがメインで、そのひとつひとつが興味
深かっただけでなく、(そのせいか、今も対談本やインタビュー番組が好きです)
最新の文化系トピックやニュースの紹介や、鹿野淳さんによる海外のバンドや
アーティストのレクチャーコーナーがあったりと、当時のカルチャーについて
の大事な情報源であり、自分にとっては本当に綺羅星のような番組で、
かじりつくように観ていました。
そして大学在学中、大学の生協で出会ったのが「STUDIO VOICE」です。
忘れもしません。というか、今も手元にあるのですが、2007年の12月号で、
今日も何度も話題に出ているエヴァの綾波が表紙の号でした。この説明不要
にして伝説的な雑誌との、これまた出会いとしてはかなり遅い時期ではありました
が、本日出演されているさやわかさんの記事や、まだ知る人ぞ知る存在であった
Perfumeのアルバムレビューが載っていたり、かなりいろんなジャンルへ手を
伸ばしているつもりになっていたけれど、「まだ僕の知らない面白いものが
たくさんあるんだ!」という衝撃と興奮を覚えました。やや余談ですが、
その後Perfumeには大ハマりしてしまい、ファンクラブにも入りました。
今や、僕に多大な影響を与えた兄は昔のようにたくさんの本を読むわけで
はないようで、「新・真夜中の王国」は大学入学と同時に放送が終了、
「STUDIO VOICE」も休刊してしまいましたが、
いずれも僕の中に今もしっかりと根を下ろしているのを感じる、
大事な思い出であるとともに、紛れもないルーツであると、改めて思いました。
思い出させていただき、ありがとうございます!
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こた
私は今年26になった男です。
自分にとっての「うれしはずかし文化的初体験」は、中学三年生のときに
出会った「クラシック音楽」です。当時の私は、勉強に意味を見いだせず、
学校も荒れており、失恋も続き、学校にほとんど行かなくなっていました。
その頃何をしていたかといえば、当時好きだった女の子(失恋相手)との
関係で、今や懐かしい「テレホ」の時間帯に、漫画やアニメを語るサイトで
夜な夜なチャットに興じたりしていました。進路を決めなきゃいけない時期
にも関わらず、引きこもっていた自分。そんなときに自分の目を啓かせて
くれたのが「クラシック音楽」でした。
小学生のときに聴いていた音楽はいわゆるオリコンにランクしていたような
ものが中心。中学生になってからはその他に古いロックや映画音楽、
ジャズやクラシックも名曲集に入っているようなものを聴いたりはして
いましたが、どれも決定打にはなりませんでした。クラシックに対しては、
やはり「ダサくて、カッコイイとは思えない」というのが当時の心境だった
ように思います。
そんな中、たまたまNHK-BSで偶然放送を目にしたある曲に耳を奪われました。
ストラヴィンスキーという20世紀ロシアの作曲家が書いた『火の鳥』という
作品です。およそ20分ほどの演奏時間、午前中眠い目をこすりながらボーっと
見始めたのですが、段々惹きつけられていき、フィナーレではこれまでには
味わったことのないような多幸感が自分の身を覆いました。終わった瞬間、
この感動を誰かに伝えたくて伝えたくて、ジッとしていられないというような
感覚をいまでもよく覚えています。
その後の私は、「こんな感動を人にも与えたい」と思い至り、1年間の高校浪人
で受験勉強をし、音楽高校に作曲専攻で入学、そのまま音楽大学でも作曲を
学びました。
最初はベートーヴェンやモーツァルトをダサいと思っていましたが、作曲を
学ぶ中で古典の凄さを思い知り、今ではきっかけとなったストラヴィンスキー
よりも敬愛しています。更に人生の価値観を変えるような体験をすることが
できたからです。
現在は、大学院でポピュラー音楽について研究していますが、
「クラシック音楽」を通ってきた耳には、また違った角度から色んなものが
見えてきます。聴く量は減っても、いまだに自分が折れそうになったときの
根幹にあるのは「クラシック音楽」です。「文化的初体験」によって
形成された判断・価値の基準が今でも自分の支えとなっています。
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揉みたい背中 26歳 千葉県
私の文化的初体験はクレヨンしんちゃん劇場版です。
私はクレヨンしんちゃんによる二次成長、言葉遣い真似しないの!
ときつく言われた隠れケツだけ星人世代です。毎週ミュージックステーション
の前は必ず野原一家の日常を凝視し、なんとはなしにしんのすけと成長を
共にしていたと思います。
そんな私に衝撃を与えたのは原恵一監督の劇場版クレヨンしんちゃんです。
特に原監督が脚本・演出から監督になった1作目「クレヨンしんちゃん
暗黒タマタマ大追跡」のオカマと玉を取り合うというシュールな設定を
民俗学的な雰囲気をかもしつつ銃をぶっぱなすロードムービーとしてまとめた
1作で、だだはまりし、以降作品がレンタル化するたびにビデオを借りてきて
は擦り切れるまで見たり、原監督のクレヨンしんちゃん最後の作
「あっぱれ!戦国大合戦」まで公開日に映画館に通う日々を過ごしていました。
地方に住んでいたので、映画館はやはり親子連れが多かったですが、
高校生になる頃には大人でも泣ける!むしろ大人が泣く作品(´;ω;`)!!
と噂されてたので、劇場では堂々と真ん中の良い席でふんぞり返れていた
ような気がします。
今では大阪万博世代を描いた「オトナ帝国の逆襲」など有名になったので
映画好きには理解してもらえるのですが、当時は「成長による喪失」を
学べる良作と話しても周囲には理解してもらえず、一人レンタルを借りて
きては居間を占拠し、正座して笑い転げながら、「大人社会の入り口」を
学んだのを懐かしく思います。
あの当時に原監督の作品に出会っていなければ、私は未だに二次成長して
なかったかもしれないと思うと、出会えた奇跡に感謝するばかりです。
時代のせいかもしれませんが、最近また、「おとなになることは寂しいぞ!」
と言ってくれる作品が減ってきたような気がするので、劇場版クレヨン
しんちゃんを超える衝撃作が出てくるのを願ってやみません。
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kratter (twitterネーム:hal0110)
僕の文化的初体験は宮台真司と宮崎哲弥の「M2:われらの時代に」
です。当時、大学に入りたての僕はサイゾーに連載されていた二人の
対談の愛読者でした。
本当の意味での文化的初体験は小林よしのりの「ゴーマニズム宣言」
でしたが、M2の「戦争でお国のために死ぬのだ!」的な2ちゃん右翼に
象徴される小林よしのりの思想をコキおろすような態度、ディレッタント
で豊富なデータベースから繰り出される二人の掛け合いを下段に描いてある
注釈を読みながらドキドキして読んでいた記憶があります。
一度では咀嚼し切れないので、「これだ!」と思う箇所にはドッグイヤー
と傾向ペンでなぞって何度も読み返しました。
政治から経済、映画時評(キューブリック論、青山真司との3ショット対談)
や音楽(ドラゴンアッシュ論、宇多田ヒカル・椎名林檎論)、性愛論まで
カバーしている二人のようになりたい!と思い、大学では「冠社会学」と
呼ばれる社会学を専攻したくらいです。
今、Lifeを聞いているのも、宮台先生のお弟子さんのcharieという繋がりです。
M2からから派生して、映画サークルまで立ち上げ、自分さがしがこじれて
留年してバックパッカーになったくらいです。そして営業という最も普遍性
が求められる会社で居心地の悪さを感じてからLifeを聞くようになったのも
全てはM2の出会いが始まりだと思います。
色んな人の考えや、思想を消化して「個」というものが形作られるという
ことを、「成長」と呼ぶのであれば、文化系の初体験からいろいろな
文化的体験を通じて、本当の自分が出来上がるのだと思います。
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所詮むさしの 23歳埼玉県在住、理系の大学院生
私の文化的初体験は、本谷有希子さんのオールナイトニッポンです。
それまでなんとなくネタコーナーを楽しみに深夜ラジオを聞いていた
自分にとって劇作家であり、小説家でもある彼女のラジオはまさに
文化的初体験でした。彼女はカレカノの声優もやっていたりと
サブカル方面にも造詣が深く、自ずと他のマンガや小説にどっぷりと
浸かるようになっていました。
そしてDTを奪ったのが本谷さんだとするならばうしろを奪ったのは
特定の本や音楽というよりもヴィレッジヴァンガードという店全体の
気がします。まわりにサブカルに親しみのある人間が少ない中で
ヴィレッジヴァンガードにいけば、最新のサブカルに触れられる。
詳しい人もいる。私にとってヴィレヴァンは至福の空間でした。
文化的入り口の変移を考える上で、サブカルも含めた文化の
アンテナショップという位置づけでとらえ、ヴィレッジヴァンガードの
変貌を追うという観点は大きな意味を持つかもしれません。
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首なしパンダ 東京都 26歳 プログラマー
僕にとっての文化系初体験のABCなのですが
A.好きだった女子が本を読む子だったので、会話のネタが欲しくて
小説を読むようになった。
今にして思えば最初に村上春樹を手にとってしまったのは女子との
会話ネタとしては失敗だった気がしますが、とにかく作品をベタに
読むだけではなくネタ的にもメタ的にも見て考えるようになったのは
思春期の欲が原動力だったように思います。
B.国文学の教官がエヴァ好きで、授業の中で本題そっちのけでエヴァ
の映画版について解説をしていたこと。
僕自身はエヴァのリアルタイム世代より下だったので、エヴァについては
設定が面白い「小道具の優れたアニメ」程度の認識はもっていたものの、
その教官の「アスカは絶対的な他者だからこそ恋愛の対象になりえている」
などの解説を聞き、視点さえ持てば漫画やアニメなどあらゆるものに
時代性や批評性を見出すことができるのだなと衝撃を受けました。
近いタイミングではナデシコやFLCLなど面白い作品もいっぱいありましたが、
フックの多さや視聴者が考えざる負えないような構成など、人を文化系に
引き込む力に関してエヴァには特別なものがあったと思います。
C.大学院での卒業研究に関連して読んだ梅田望夫さんの「ウェブ進化論」
単純に技術的な意味合いでしか興味がなかったITという分野に対して、
社会をいかによりよいものにして行くかという視点を得られたと思います。
ちょうど当時はiPhoneやTwitterが流行り始めだったこともあり、
実際に社会が変わってゆく感じを肌で体感していたことも大きいと思います。
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メグロポリタン 神奈川県
私の文化的初体験は、1995年に放送していたテレビ版の
エヴァンゲリオンだと思います。
私は当時、劇中の碇シンジと同じ14歳の中学生だったので、
難しい事はよく分かりませんでしたが、エヴァに乗った碇シンジが
渚カオルを握りつぶす場面は今でも印象に残っています。余談ですが、
その日は塾があったのにどうしてもその場面から目が離せず、
塾に遅刻したことを今でも覚えています。。。
高校生になってからは、ロッキング・オン・ジャパンを読み始め
くるりやナンバーガールを好んで聴くようになりました。
エヴァとロッキンオンジャパンに共通するキーワードは
「自分語り」や「自意識」だと思います。
1995年は、地下鉄サリン事件や阪神大震災などの大事件が立て続け
に起きるのと同時にITが急速に普及し始めた時期でした。私も子供ながらに、
社会がものすごい勢いで変わっていくのを肌で感じていました。そんな
社会の変化に対する反作用として、「自分はこの先どうやって生きていけば
いいんだろう?」という漠然とした不安があったと思います。
エヴァやロッキングオンジャパンは、こんな私のモヤモヤした気持ちを
代弁してくれていたような気がします。
「ログイン」や「ビックリハウス」もそれぞれの時代の空気をまとって
いたのではないでしょうか?その辺りのお話も伺いたいです。
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リーモー
僕の今の自分を形作るきっかけとなった文化的な体験は高校の演劇部です。
俗にいう高校演劇ってやつで、僕はたまたま入った高校の演劇部が色々
あって創部ほやほやみたいな状態。でも顧問の先生がめちゃくちゃすごい
演出で、音響照明、舞台に必要な環境が人も機材も揃ってるという
恵まれた環境でお芝居を始められました。
そんな中で舞台演出をやっていくうちに、音響のこと調べるうちに
洋楽から邦楽JAZZクラシックとにかく古今東西いろんな音楽に触れ、
衣装について調べるうちに色んなファッション誌を読み漁るようになり、
もうとにかく高校生が舞台の演出をやるとなるととにかく無限に映画や
音楽や様々文化にふれまくるきっかけになりました。
演劇の大会では県でも3位まで入れて、その時に一緒に演劇をやっていた
仲間は今でも親友と呼べる連中ばかりです。僕はもう24ですが今も高校の
部活とはつながりがあって今でもよく遊びにいってますw
(今日も遊びにいってきました)
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スターリング・エレファント 中野区 47歳・男・独居
僕の場合は70年代に創刊された情報誌、タウン誌、その流れを組む、
80年代のリトルマガジン群ということになるでしょうか。高校生だった
80年から82年にかけては『ホットドッグプレス』『メンズマガジン』などは
ガン無視、『GORO』『平凡パンチ』『週刊プレイボーイ』は宮崎美子(笑)
などグラビアだけチェック、『ポパイ』『ブルータス』は映画や本や海外旅行
など気になる特集以外はスルー、『ロッキンオン』など音楽雑誌は全く興味
なかったので存在すら憶えていない、マンガは『ビッグコミックスピリッツ』
を立ち読み、『週刊宝石』の書評コーナーを読み、『本の雑誌』『ぱふ』、
『OUT』などエンタメやマンガ、アニメ雑誌も立ち読み『アニメック』
だけは多少はアニメ評論というものの萌芽があったので購入、映画雑誌は
『キネマ旬報』を定期購読という状況でした。今から振り返っても
じじむさい感が致しますね。
そんな中やはり一番影響を与えられたのは関西の情報誌
『プレイガイドジャーナル』通称『プガジャ』(のちに正式に『ぷがじゃ』)
でした。B6判の本当のリトルマガジン、月イチ発行、映画や演劇、
ライブハウスのスケジュールを中心に、それ以外にも書評、マンガ評、
レコード評、あるいは社会問題に関する会合や、イベントなどの告知も。
反原発運動や各種の抗議行動など、今ならブログやツイッターなど
ソーシャルネットワークで拡散していくようなものが、全て並列に
掲載されていることが特徴でした。
つまり、京一会館や大毎地下劇場、戎橋劇場、三越劇場、香里園シネマなど
の名画座の番組編成、コンサートも名画の上映、試写会も催していた
中之島SABホールのイベント、厚生年金会館やサンケイホールで行われる
コンサート、神戸のチキンジョージなどライブハウス、アルバトロスや
オレンジルームなど小劇団の上演情報と、例えば食品の安全に関わる問題や
左翼的な社会活動のイベントなど、ごった煮的な情報を眺めていたわけです。
ぼくは映画ファンなので、もちろん映画の上映情報がメインで読んでいたの
ですが、ほかにも読みでのある記事やコラムが掲載されており楽しかった。
『ぴあ』と違うのは、この雑誌はただ情報を並べるだけでなく、きちんと
した批評も載せていたことです。
例えば誌面にはピンク映画の若手有望株で初の一般映画『ガキ帝国』を
撮影中で、厳しいスケジュールにボロボロになっていた若き日の井筒和幸監督
の連載や、マンガ評論、フリー編集者として台頭してきてのちに『プガジャ』
の編集長となる村上知彦、その盟友であり関西自主映画界のスターだった
大森一樹、マンガでは『がんばれ!タブチくん』『バイトくん』のヒットを
飛ばした、いしいひさいちの連載、あるいは『猟奇王』の川崎ゆきお
(ゆでたまごのいとこか、伯父さん)、ひさうちみちおなど個性的な面々が
揃っており、まさにカオス。
そこへ作家として独立した椎名誠のインタビューが掲載されたり、
INUこと町田町蔵やスターリンが取り上げられたり、遊ぶ本屋ことマンガ専門店
わんだーらんどの店長がフィーチャーされたり、後々誌面がB5判と大きく
なってからは、明確に洗練されたサブカル雑誌を志向し、大友克弘や吉田秋生
のインタビュー、村上春樹、川本三郎らの連載、そして竹内義和や中島らも
らが、名を上げていく。
大阪からは和泉山脈という山で隔てられ、文化果つる僻地、和歌山に住んでいた
高校生のぼくにとって、そのごった煮的(実際、レイアウトなど、誌面はとても
洗練されているとは言い難かった)な情報が、サブカルとの出逢いであり、
ひいては都市の歩き方、街場の掟みたいなものを教えてくれた、貴重な道案内
でした。
自分の高校、大学時代と丸かぶりしているから、やはり忘れ難い。
『関西版ぴあ』の創刊や、経営者と編集サイドの対立、バブル期を迎え読者の
嗜好も変わってきたのか、こういうサブカル志向とイベント情報を折り合わせた
雑誌は経営的に苦しくなったようで、88年には廃刊となります。
今や『ぴあ』もなくなり、人はネットに氾濫するタダの情報しか望んでないの
かも知れません。もちろん、ぼくもその恩恵を受けてはいます。ソリッドの自分の
興味ある情報だけを検索していればいいのかも知れない。
しかし、あの情報の並列、ごった煮、そして批評性を備えた『プガジャ』を読む
ことによって、全く関心のなかったジャンル、カルチャー、人について興味と
知識を得たことは、個人的に大きな財産になっていると思いたい。そう今の自分
を形作ってくれたもの、それが『プガジャ』でした。
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ワタナベ 34歳 東京都在住 フリーター
私の文化的初体験といえば、やはり現代美術の大御所、
村上隆さんでしょう。
村上さんが今ほど世界進出する前の、1997年の事です。
たまたま知人に誘われて行った愛知県立芸術大学の学園祭で、
イベントの一つとして開催されていた村上隆トークショーに遭遇しました。
美術とは無縁の普通大学に通っていた私にも、
村上さんの熱いアート系トークはとても興味深く感じられました。
上から高尚な文化を押し付けるような内容ではなく、文化とは何か、
美術とは何かを解析しようと試みる彼の基本姿勢が、無教養な私にも
受け入れやすかったのかもしれません。
また当時、村上さんがアメリカ留学から帰国した直後という事もあり、
時々英単語が混じりながら進められるトークは、(日本の絵画は
トゥーダイメンションの構造が云々...みたいな)何となく理解できるけど、
ちょっとハイブローで高尚な感じもする。でも決してオシャレではなく、
どこが不器用で、そんなところに共感を覚えた気もします。
私はそのトークショーの後、美術に興味を持ち、美術史の本とかを
読み漁るようになり、地方から東京に足繁く美術展を見にくるようになり、
その後普通大学から美術系の大学院に進学し、自分で絵を描くようにもなり、
作品発表などをするようにもなりました。実際に文化の片隅の片隅に関わる
ようになったことで、村上隆初体験の頃と比べたら文化という枠組みの
捉え方も随分と変化したと思いますが、昨今Twitterで村上さんが暴れてる
のをみるたびに、初心を思い出す。そんな私の文化初体験です
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岩手県盛岡市:超光速厩務員
まぁ...誰にも同意されないのは承知で言えば、
私の《文化的初体験》といえば『競馬』ですな。そして、それは今も継続中。
競馬以前にも本であったりアニメーションとは接触してはいましたけど、
それは《私の中の世界》なので、文化的初体験とはちょっと違う。
岩手の馬でスイフトセイダイというのがいまして...大きくて、強くて、
そして美しい馬でした。他の人は知りません...が、私の場合は博打ではなく
《馬ありき》のスタートでした。なので、常に競馬は《自分の価値観と現実との闘い》
でもあります。自分が《良い》と思う馬が常に勝つワケではない。
多くの場合、レースがスタートして2分後には『自分のどこが間違っていたのか』
を考えることになる。自分も含めて、競馬場に集う人間をみていれば
《人とはいかに自分に都合のいい情報にすがるものか》がよくわかります。
そして、人間とは、いかに他人(の情報)にすがり、他人に責任転化をするものかも...。
まぁ、なんです、随分私も謙虚になりましたよ、競馬のおかげで。パドックで
一番邪魔なのは《自分》というファクターですもんねぇ。
それだけではなく、競馬のおかげ、馬のおかげで《生物学》、
馬産に関連する《農政》、地方競馬に関連する《地方自治体の運営関連》に
関してはずいぶん真剣に勉強しました。無論、世界の馬産、競馬に関しても...。
正直、世界の、日本のことは、全部《競馬と馬が教えてくれた》といっても
いいくらい。ま、伝わらないだろうな。
追記:天皇賞・秋はとれました。昨日のスワンステークスもとれました。
今のところ、《自分と現実とのすり合わせ》は上手くいっているようです。
と、思っている時点で既に《傲慢の虫》にとりつかれているのですけどね。
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鶴賀太郎
「私と映画のABC」【雑誌編】
A) 「ワイドショー」
私は「ワイドショー」派でした。中学の入学とともに買い始め、
フィービー・ケイツとリー・トンプソンに胸をときめかせ、後ろの方の
白黒ページにおっぱいを探していく中で大作以外にも関心がいくように
なりました。気づけば一人で「ファンダンゴ」を観に行くような渋い
中学1年生になっていました。
B)「ニューズウイーク」
高校に入ると背伸びをして親に購読してもらった「ニューズウィーク」
の映画評にハマりました。それまで見て来た日本の映画評は大人の事情か、
どれも提灯記事のようなものばかりだったのに対し、「ニューズウィーク」
ではヒドイ映画や演技はボロクソにけなす他方、いい映画や俳優はきちんと
褒めていました。それが私の実感と一致していたので、とても重宝していました。
今となっては評者の名前を覚えておかなかったことが悔やまれます。
C)「広告批評」
大学に入ってから買い始めた「広告批評」に連載されていた
「淀川長治とおすぎの名作映画コレクション」に色々な意味で童貞をもって
いかれました。これで邦画や単館系の映画の面白さや、愛すべき先輩を慈しむ
おすぎさんの淀川さんに対する眼差しを学びました。今でも
「二人ならこの映画をどう切っていただろう」と思うことがあります。
あらためて淀川さんのご冥福をお祈りします。
「私と映画のABC」【メディア編】
A) 「日曜洋画劇場」
私と同世代の人ならこの番組を通っていない人はいないでしょう。
深夜の映画や昼間のテレ東の影響もバカにならないですが、
イニシエーションといえば「日曜洋画劇場」です!
B)「Show BIZ Today」
90年代にやっていた深夜番組。
ビルボードチャートと全米映画興行収入のカウントダウンに加え、
スターのインタビューを30分の中で小気味よく紹介。
たしかオリジナルはCNNの制作。この映画のカウントダウンでは各映画に
一言の寸評が付いており、淡々としているのに毒の効いたそのコメントに
しびれていました。
C)「ウィークエンドシャッフル」
正直言うと「シネマハスラー」を聴き始めた頃は、宇多丸さんと意見が
合わないことが多くありました。でも聴いていくうちに宇多丸さんの
論理的な映画の見方がとても参考になり、それによって私の映画の見方にも
大分広がりがでてきたような気がします。そして宇多丸さんに影響されたのか、
気づけばわりと宇多丸さんと同じような感想を持つことが多くなってきました。
特に宇多丸さんが大人の事情や人間関係と自らの矜持の間に挟まれ悶絶しながら
映画評をする回は最高です。
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となりのかべ 愛媛県 39歳
自分はラジオが文化への入り口となっている気がします。
小学生の時に、クリスマスプレゼントでポケットラジオを両親からもらい、
そこからラジオと共に生活しているようなものです。もっとも地方で
暮らしているので、東京の放送というより地元ローカル局の番組を聴くことが
多かったのですが、中学生の時、東京からネットされる深夜放送を聴いて
その面白さにはまってしまい、中島みゆき、デーモン小暮、サンプラザ中野、
鴻上尚史などのオールナイトニッポンを聴いては、翌日学校で友達と
放送内容について盛り上がっていました。
「さだましのセイヤング」に至っては、広島ではネットされていないにも
関わらず聴きたいがため、アンテナを東京に向けて雑音のなか、必死に
聴いていた記憶があります。そこで投稿される「はがき職人」さんのお便り
にずいぶん楽しませてもらいました。もっとも、自分は面白いこと
書くセンスはないようで、読まれた記憶はあまりないです。
そういえば、「はがき職人」から構成作家になった人もいたと思います。
20数年前はメールという個人が文章を書いて相手に送ることが
簡単にできるツールはなく、「はがき」という限られた空間の中でいかに
パーソナリティに読んでもらえるかを競っていた時代。自分の何度か投稿した
記憶をたどると、文章を書いて推敲し構成しとかなり時間をかけていたと
思います。時には面白い投稿をする人の文体をまねてみたりもしましたが、
なかなか採用されることはなかったですけどね。
時代がすすんでメールやTwitterでも番組に投稿できるようになった現在ですが、
「はがき」のみでお便りを受け付けている、山下達郎「サンデーソングブック」
を聴いていると読まれるお便りの内容や表現がまとまっていていいなあと
思うことしばしです。たぶん、いちど紙に落とし込むということは、
自分が書いた文章を読み返すという作業が必要になってくるからではないか
と思っています。
文化的初体験というと雑誌やテレビ、ラジオに影響を受けて、
音楽が好きになって人生が変わったなんてことになるのでしょうが、
学校の作文以外に文章を書く、その文章を番組で読んでもらうというのも
体験の1つではないかと思います。そのあたり、Lifeに出演されている方は
文章を書くこと生業にされている人が多いと思いますので、
何をきっかけに文章を書くようになったかも話のひとつにしていただければ
と思います。
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K.S.H. 大阪府 25歳
ぼくが中学生のとき、KICK THE CAN CREWやRIP SLYMEが
すごく流行りました。それまでの日本のヒップホップは、
ベースボールキャップを被ったイカツい兄ちゃんのマッチョイズム、
悪く言えば黒人ギャングの真似事の音楽が主流だったのですが、
それとはまったく別の日本の風俗にあった、スマートにラップする
スタイルが衝撃的でした。
当時はメジャーシーンで売れてランキングに乗ることがかっこ悪い
ことだという風潮があり、メジャーとアンダーグラウンドで対立する
動きが目立ち、ぼく自身も振り回されていました。キングギドラが
他のアーティストを「セルアウト」だと曲中でdisっていたのが象徴的で、
記憶に残っています。
最近ではアンダーグラウンドの人が、ラップを始めたキッカケや
影響を受けたラッパーに、かつてはセルアウトだとされていた
アーティストを挙げていることも多く、そういう世代なんだなぁと感じます。
「lyrical school」という「清純派ヒップホップアイドル」を掲げた
アイドルグループが活動していたり、「ヒップホップとは?」みたいなこと
をあまり気にしなくなったのかな、と思います。
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はちごろう 38歳 練馬区 自営業
小学校3年生の時、親から防災用の携帯ラジオをもらいました。
それをきっかけに、僕のラジオライフが始まりました。
最初に聴いたのは当時TBSの若手有望株だった松宮一彦アナが
担当していたTBSラジオの夜ワイド「夜はこれから」でした。
とはいえ夜中まで聴きとおせるほど宵っ張りではなく、せいぜい10時
ぐらいには寝落ちしてしまっていたのですが、それでも番組内で松宮さん
がリスナーに電話を掛ける際、「夜分遅く申し訳ありませんが・・・」と
言うのを聴いて夜に誰かの家に電話を掛けるときはそう断るのが礼儀なのだ
と教わりました。この番組は毎週木曜になると松宮さんが追っかけアナ
としてTBSテレビの「ザ・ベストテン」に出演する関係上、木曜日だけ
違う人が担当していました。それが当時「コサラビ」と呼ばれていた
関根勤さんと小堺一機さんでした。どんな内容を喋っていたのかは
ほとんど覚えていませんでしたが、二人は放送中ずっと爆笑していて、
その笑い声につられて爆笑していたのを覚えています。
その後は、吉田照美さんの「てるてるワイド」や三宅裕司さんの
「ヤングパラダイス」などを聴いていましたが、高校生になっても
深夜放送を聴けるほど遅くまで起きていられなかった僕は、録音予約が
できるラジカセを手に入れた高校2年生になるまでオールナイトニッポンは
ほとんど聴いたことがありませんでした。ですから、僕にとって最初に
はまった深夜放送のスターはたけしさんでも、とんねるずでも、伊集院さん
でもなく、当時土曜の夜に文化放送で放送していた「セイヤング」の
さだまさしさんでした。
そしてある程度夜中でも起きていられるようになった大学生の頃、
土曜の夜は11時から文化放送の「セイヤング」を聴き、0時半から
TBSラジオの「コサキン怪傑アドレナリン」にチューニングを合わせ、
そして深夜2時から「林原めぐみの東京ブギーナイト」を聴いて眠りにつく、
という生活をしていました。
その後、家業のクリーニング店を手伝うようになってからは僕のラジオ生活
はさらにエスカレートし、森本さんと悠里さんの小競り合いを聴きながら
仕事をはじめ、「なかなかTBSは昼の番組が定着しないね」なんて思いながら
夕方になるとまだ穏健だった「こども電話相談室」や若山源蔵さんの
「TOKYOダイヤル」を聴くという生活に入っていきました。
当時はラジカセ1台だった僕の所有ラジオもいまや一部屋に1台の勢いで、
毎日なんらかのラジオを聴きながら生活しております。
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21century schizoid man
私が美少女アニメに触れたのは多分中学2年の頃で、
もともと声優の林原めぐみさんのラジオを偶然聴きそこから聴き続けて
いたので林原さんが出ていた名探偵コナンとかいわゆる非美少女アニメは
普通に見てましたが、萌え系の絵で女の子のハーレムの中にいる男という
設定の美少女アニメは私のいた岩手県盛岡市では地上波でやっていません
でした。(たしか高校2、3年のときにらき☆すたが深夜に放送されてました。)
ちなみにアニメのEDでキャストの名前をチェックする習慣も声優ラジオの
おかげ生まれました。
そんな状況を変えたのがWOWOWでした。我が家は加入してなかった
のですがたまにチャンネルを合わせると洋楽のアーティスト特集や
ハリウッドExpress的な番組が見れることを知ってました。(そこで洋楽に、
特にFOO FIGHTERSに目覚める)その頃WOWOWでは同じように
無料視聴枠がアニメにもあって、そこで美少女アニメ「まぶらほ」に
出会い私の生活を変えました。
我が家にはTVがリビングに一台しかなかったのでアニメの放映時間帯
の午後六時あたりになると3つ上の姉が既に家に帰っていた事が多く、
自意識と姉の視線の2つの視聴阻害要因がありリアルタイムで見る
ことができませんでした。
それを解決したいがためにビデオレコーダーの必要性を親に説き買わせ、
勉強頑張るからとWOWOWに加入をさせ、ビデオとテレビの配線接続を
美少女アニメがみたい欲望で自分の金でケーブルを買い試行錯誤して
ビデオ録画を可能にしました。結果母親や姉がいないときにWOWOWの
録画したアニメを見るという習慣ができました。
現在は美少女アニメを含めていろんなアニメをチェックしてますが
このときの美少女アニメとの出会いは大きかったのだろうと思います。
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がらん 名古屋市 1964年生まれ
私は メディアクロスマガジン「バラエティ」です。
角川のアイドル誌と思われがちですが、この雑誌はありとあらゆるジャンル
を網羅しており、高校生の私には先生であり、映画、音楽、小説を楽しむ
初歩を教わりました。主流ではないものに惹かれるようになったのは
この雑誌の影響だと言えます。
マイナーなもの、あるいは良識派の大人から軽くみられるものを溺愛して
しまう私の性向に決定的な影響を与えたことは間違いありません。
とくに、高校の卒業式の翌日に6人で見に行った日活ロマンポルノにはまり、
先ほど亡くなられた若松監督がオーナーの「シネマすこーれ」という映画館に
にポルノがかかっているのを知り毎週通いました。「バラエティ」のB級映画
を偏愛する特集がその精神的裏づけとなり、森田芳光、石井隆、根岸吉太郎、
滝田洋二郎等の映画に出会うことができた豊かな時代でした。
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らおた 42さい男性
大学に入るまでは小ネタが大好きで大したことをしていませんでした。
「今の自分」を形作るきっかけになったのは何もする事がなかった夏休み、
エロ雑誌に載っていた「コミックマーケット」の記事でした。エッチなものを
見たいというわけでもなく、暇つぶしに行っただけなんですが、そこで、
「評論」というジャンルを知りました。そのサークルでは様々な研究をする
人達が集まっていて、彼らが「ホームパーティー」をやっているという
「NIFTY SERVE」に入る為、パソコンをリボ払いで買いました。
「NIFTY SERVE」に入ると、研究している人達が参加している
「コレクターズフォーラム」という所に出入りするようになりますが、
私はこれといったコレクションを持っていません。一人暮らしをしていたので、
いくらあっても困らないカップ麺のフタを集めるようになり、そこで、
インスタント麺研究家の大山即席斎さんと知り合う事になります。
大山さんがラーメン博物館にパッケージを展示するという企画があるそうで、
打ち合わせについて行きました。そこで食べたラーメンに感動し、ラーメン
を食べ歩くようになりました。その1年後、テレビチャンピオンで優勝して、
ラーメンを食べたり語ったりする事がライフワークになって、今に至ります。
「あの日あの時あの場所で君に会わなかったら」という歌詞がありますが、
私の場合は明確に、1995年の晴海の夏コミがきっかけでした。そういえば、
その同人誌の主筆も、ビックリハウスのエンピツ賞受賞者だったそうで、
私より年上の方はかなり尊敬していたようなのですが、私にもその凄さが
理解できませんでした。
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にんじんポタージュにシナモンを振る
私にとっての文化的、というか社会的初体験はLifeです。
私は外国人で、親の仕事の関係で日本に来て、インターナショナル
スクールに通い、テレビもほとんど見ずに暮らしてきました。
今は日本の大学に通っていますが、日本社会に関する知識は人と比べて
圧倒的に少なかったと思います。
初めてLifeを聞いたのは2年前で、自分が今まで住んでいた日本社会に
ついて知らないことが多すぎることに気づいてびっくりしました。
自分が外人で、自分が普通でないという認識はありましたが、自分の周りの
環境は普通の日本社会だろうと信じていたのに、Lifeで語られる様々な事象は
遠い国のことのようでした。そこでようやく日本社会に対する好奇心が持てました。
その後はニュースをチェックしたり、図書館で本を漁ったりして自分なりに
知識を補っています。
あとLifeを聴いて、自分が日本社会の中で少数派であることを常に意識する
ようになりました。それは外人だから、というより、自分が今属している
コミュニティが少数派であり、このコミュニティの中での考え方が外でいつも
通用するとは限らないと悟ったからです。社会と一言で言っても中には色々な
コミュニティがあるし、なかなか一括りにできないものですが、自分の属して
いるコミュニティの外をきちんと認識することは、少数派になったことのない
人たちにとっては中々難しいことなのではないかと思います。私は既に外人
というマイノリティであったことと、Lifeなどで知識を蓄えたことで、完全に
理解することは出来ないけど、考え方の違いを認識して尊重するところまでは
何とか来れたかなと思います。
インターネットなどで自分が能動的に手に入れられる情報は自分が知っている
ものに限られてしまうので、自分が何を知らないかを教えてくれるものが必要
になると思います。私にとってのそれLifeで、今のところすばらしく機能してる
と思います。
取り留めのない文章ですみません。
最後に、Lifeを作ってくださって本当にありがとうございます。
これからもずっと続けてください。応援してます。
※こちらこそありがとうございます。今後ともよろしくお願いします(スタッフ一同)