小さな絵本
僕は31歳・一児の父で精神科で看護師をしております。
僕が理想だと思う家族は
「自分を含めた家族構成員が『安心して』過ごす事が出来ること」です。
僕の仕事は精神科看護なのですが、依存症圏の言わゆるアディクション
と言われている病気は「機能不全の家族関係」が大いに影響していると
されているのはよく言われていることです。
しかしながら、比較的、機能不全家庭がイメージしやすいのに対して
『機能的な家族』というとイメージが沸かない。
それどころか、人によっては、アメリカのコメディに出てくるような
『言いたいことをいって、時に大声で怒鳴りながら、最後に
「やっぱり家族が一番だよな。みんな抱き合おう」といい、抱き合っちゃう』
とか『ドラマ【ひとつ屋根の下】のように「どうして、こんなに愛しているのに
わからないんだ!」と言いながら、時に感情的になり暴力を振るっちゃう』※
みたいな映像が浮かんできてしまうことすらある訳です。
僕にとっての理想の家族は言い換えると
「まるで自助グループのように、言いっぱなし、聞きっぱなしでも、
そこに存在していられること」「お互いに、心の底は分からない。
その上で分からない事を認め合えた関係性」なのです。
先の例はそれとは全く異質の「共依存」だと僕は思うのですが、
それがよいとされてしまう場面が多かったりするのは何故なのだろうか、
と考えたりもします。
が、思考はなぜかそのあたりでオーバーヒート気味になり
「まあ、いいや。LCLにみんなで溶けこんで、いつの日か人類の考えが
一体化する日が来るさ」なんて、エヴァンゲリオン仕様の思考になったりする
今日この頃です。
(※というシーンが実際にあったのか、番組としては未確認です。)
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安東三 25歳男性 新婚。
「社会」と「家族」はどちらも人が集まっているところの話ですが、
どこがどう違うのか、言葉の印象を元に分けて考えてみました。
家族はおろか、社会についてさえちゃんと勉強したことがない聞きかじり
ですが、ここでいう社会とは、近代社会と言われているものかもしれません。
とりあえず、ちょっと頑張ったので読んでみてください。
社会っていうのは、基本的にバーチャルで、家族っていうのはリアルな感じ
がします。整然と制度化されている社会と、雑然として「めんどくさい」家族、
というイメージ。
社会の強みは、そういう「めんどくささ」を排して、より広く、よりスピーディに
やりとりできる点にあります。つまり個人という枠組みを超えた、発言の
やりとりが可能である。でも、同時にその「めんどくささ」を排することが、
社会の最大の弱点にもなっていて、そこには「全員参加が前提なのに、
でも個人の全てを含むことはできない」という不備があるように思います。
よく、社会の役に立たないなら存在意義がない、みたいな言い方って
ありますが、これは、社会が世界の全てであると勘違いしてしまった典型
だと思います。現行の社会は、全てを包括したい欲求はあれど、絶対に何か
を取りこぼしてしまうのではないでしょうか。
さて、家族というものは、社会の取りこぼさざるを得ない何かを大量に
含んでいます。その「何か」のひとつに、「肉感」というものがあると思います。
基本的にセックスを中心に構成されている今の家族は、
抽象化/観念化/社会化できない「肉感」というものに支えられています。
とはいえ、セックスがここまで氾濫している今日、それが換えの効かない
肉感的な体験と思えない人も沢山いるかもしれません。
そういう意味では、セックスに依拠しない家族、それ以外の何かで「肉感」
を得る家族、というのが居てもおかしくない気はします。
何がきっかけで「肉感」を得てもいいんですが、家族として生活を送る上で、
絶対に保証されている肉感があります。それは、「死」だと思います。
社会的に組み込まれた「死」ではなく、この人が死んだら絶対に嫌だと
思えるような「死」。こうした「死の肉感」は、誰かと生活を共にすることで増します。
つまり「家族と生活を送る」というのは「死を意識する」の言い換えであるように
さえ思います。
承認の話にくっつけてみます。
承認っていうのは存在の肯定ですが、自分の一挙手一投足を全て肯定して
もらいたい、なんて単純なもんじゃないと思います。簡単にいえば、
「いつか自分が死ぬことを知ってもらいたい」ということだと思います。
「誰に」「どの程度の深さで」知ってもらいたいかは人によるでしょうが、
恋愛と承認が結びつく人の場合、それは一人の人に、濃密に自分の死を恐れて
もらいたいのだと思います。
余談ですが、古谷実『シガテラ』には、恋人を持つことの悦びと不安が丁寧に
描かれています。主人公荻野が、不安とともに生きることを決意したとき、
彼は日本の平和を心底ありがたく思うわけですが、彼女と付き合って戦争を
心底恐れたことのある僕としては、これは深く感激した覚えがあります。
つまり、家族の条件とは、
「誰かと一緒に生活して、その誰かが死ぬのを思い浮かべること」だと思います。
そして、その家族から社会を見ることができたら、すごく理想的かもしれないなあ
と思っています。
Lifeと古谷実と同人誌に支えられながら僕はこんなことを考える新婚になりました。
皆様ありがとうございます。学生時代に比べ、メールを出す機会がぐんと減りました
が、これからも楽しく聞かせていただきます。
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ユウキ
まとまりないですが、僕達がいう「家族」について、
簡単に書き連ねてみます。
中野は沼袋、僕達「家族」は、10人雑居暮らし中です。
(昨日、1人出て行って、いまは9人ですが)
男は6人、女性は4人。
互いに家族と呼び合い、別になれなれしくしているわけでもなく、
ただ、本当に家族と思えるから、家族と呼んでいます。
お互いに気兼ねなく何でも話せますし、相談にも乗ります。
時に馬鹿馬鹿しく飲み明かしたり、友人を呼んでパーティをしたり。
ただただ一緒の時間を、一つ屋根の下で過ごしていく中で、
僕達は、互いを家族と呼んでいます。
もちろん血縁関係はありません。
ここで気づいたことは、後発的な家族もあるのだということでした。
「それは家族ではない」っていうのは、自分達にとって、ピンとこなくて、
自分達は、何の疑いもなく家族と互いを思っているから、
やっぱり家族なのだと思います。
最近出て行った女の子は、「家族といってくれてありがとう」という、
手紙を書き残して出て行きました。
実家(ちなみに僕は新潟出身です)の家族も、もちろん自分の家族ですが、
ここにいるみんなも、間違いなく自分の家族です。
ラジオ、起きてたら、その家族の何人かで聴きますね。