本編&外伝で読むことができなかったメールの中からピックアップして掲載します。
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柴那典(ライター・編集者)
以前「No Music, No Life?
~音楽はいまどう聴かれているのか」の回に呼んでいただいた際には刺激的な話に参加させていただきありがとうございました。「カーニヴァル化する社会から10年ブロック化する社会」ということで、専門分野である音楽からはちょっと離れるのですが、言いたいことが沢山あり、メールさせていただきます。
メールテーマの「ブロック化を感じる瞬間」ということで、やはり思うのは佐野研二郎さんを巡る案件です。佐野研二郎さんの騒動、特にそれが中島英樹さんや森本千絵さんのような名のあるデザイナーへの中傷にも飛び火している現状は、僕は「祟り神2.0」の仕業と捉えています。
オカルトな話に感じる人もいるのは承知ですが、僕としては、呪いや祟りは決して過去のものではなく、宗教やスピリチュアルの世界の話でもなく、むしろバージョンアップした「2.0」となり現在のネット空間、ソーシャルメディア空間を跋扈しているものだと考えています。そして、「カーニヴァル化する社会」はネット社会を生きる人間が「祟り神2.0」の持つ力に惹かれ、それにとり憑かれる構造を先んじて描いた一冊と捉えています。
(ちなみに「祟り神2.0」のもう一つの側面を象徴するのは、ネット上で一人の芸人への執拗な中傷が繰り返されたスマイリーキクチさんを巡る事件だと思います。中傷に加担していた一人は、警察に逮捕されたときに「私はネットに洗脳されていた」「私のほうがつらいんです」と泣き崩れたそうです。これはまさに"祟り神にとり憑かれた人間"のふるまいを象徴しています)
ただし、「カーニヴァル化する社会」が書かれた頃は「ネットイナゴ」という言葉があったとおり、こうした問題は「匿名の悪意」によって生まれると思われていました。誰もが実名を使うようになれば、責任を持って発言するようになる。そう信じられていた時代でもありました。しかしFacebookが普及した今、決してそうではなかったことが明らかになっています。
(僕自身、最近「フジロックの行方と全てのジャンルはマニアが潰すという話」というタイトルのブログ記事への反応で「こいつは死ねばいい」といくつか呪詛の言葉を受けました。が、そうしたアカウント主の生活を丁寧に追っていくと大抵気のいい、そしてマニアックな音楽好きであることが多かったのが印象的でした。)
「祟り神2.0」の生まれる由来にあるのは、匿名であれ、実名であれ、それぞれの個人が持つ「こいつはけしからん」「気に障った」という小さな感情のうねりであると思うのです。一人一人には決して誰かを呪う悪意はなく、むしろ正義感に近い気持ちからそれが立ち現れていると思います。しかしその感情が記号化されて増幅するときに「祟り神2.0」が立ち現れると僕は考えています。「バチが当たる」というやつです。
こうした昨今、「ブロック」という方法が用いられるのは、ネット上を飛び交う呪詛や祟りへの対応策として、一つの必然です。「触らぬ神に祟りなし」というのは今のネット空間を生きる上で心に留めるべき格言であると思います。
しかしその一方で、佐野研二郎さん周辺のさまざまな案件を見ていても思うのですが、「祟り神2.0」が立ち現れる、つまり「こいつはけしからん」「気に障る」と多くの人が感じるのは、「権威の閉鎖性」を目の前にした時でもある。つまり「ブロック」は「祟り神」を避けるための必然的な対応策でありつつ、それを安易に用いるのは新たな「祟り神」を呼び寄せてしまう要因にもなる。そういうジレンマのある時代を生きているのではないかと思います。
長くなりました。僕が思う「ブロック化の時代」を解決するための方法は、一つあります。それは「大仏建立」です。
突飛な話ですが、ネット空間やソーシャルメディア空間の中には、人々の「気に障る」「けしからん」という感情の小さなうねりが「祟り神2.0
」としての大きな力を持たないために、それを祀る神社仏閣のようなものが必要なのではないかと思うのです。日本はアニミズムの国なので、クラウド上にも「霊的存在」があり、それを呪鎮せねばならないという考え方は、意外にすんなり受け入れられるのではないかと思います。
そういう宗教性を持ちつつ、とにかく「バカバカしいほどデカい」とか「笑っちゃうほどすごい」とか、外野からのツッコミを受け入れる余地があるものが「大仏」として有効な機能を持つのではないかと思います。マキタスポーツさんの言う「ボケの有効性」にも近い発想かもしれない。
僕が最近見た中では、長渕剛さんの10万人オールナイトライブと、話題になったその参加者によるレポ(http://togetter.com/li/864407)は、まさに「大仏」的なものでした。
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nao 34歳男性
最近Apple MUSICを始めました。
無料なんで様子見で始めたのですが、なかなか面白いです。
私は洋楽を中心に浅く広く聴いているつもりです。
Apple MUSICで面白いのは、for youという、聴き手お気に入りなどから、オススメのプレイリストを提示してくれるものです。
これが怖いくらい私の音楽履歴に合致しています。インディ系ロックやテクノ、エレクトロニカが多いんですが、『お前は俺か!』と言いたくなります。
いわゆるビッグデータと言われるものの成果だと思うのですが、自分と同じような嗜好の人間はいっぱいいて 、自分では色々幅広く聴いているつもりでも、お前はそのブロック・クラスタの中で泳いでいるに過ぎないと言われている様な気がします。ただの考え過ぎかと思いますが。そもそも、こんなもんだったのが可視化されただけでしょう。
ただ、このおかげ何となく自分の嗜好の地図か頭の中に出来てきた気がします。そして意外な発見もあり、結構楽しんでいる面もあります。
ブロック化というと、何となくネガティブなイメージになりがちですが、頭の中に出来た地図を使ってブロックの間を縫うように動いたり、渡ったていく様な感覚が出来てきて、非常に新鮮です。
音楽に限った話なので、もっとセンシティブな問題については、深刻な現象かもしれませんが、ブロック化した状態をもっと俯瞰し、客観的な地図の様なものがあれば、少しは光は見えるんじゃないんでしょうか。
ちなみに、面白かったプレイリストはデヴィッド・ボウイをサンプリングした楽曲リストです。
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青の亡霊
僕が最近ブロック化を感じるのはアイドル現場です。
ハロプロ派、スタダ派、AKB派、地下アイドル派とわかれている上にその派閥の中でもファンクラブに入っているかの差別化、DDなのか、接触がメインなのか、レス厨か、ピンチケか、などなど同じアイドルを推しているファンは仲が良いなど幻想で、現場はギスギスしております。自分はといえば、比較的ファンに一般層が多いももいろクローバーZ一本に逃げることにしました。
ももクロのライブは平和で楽しいですよ。
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福田十二指腸 38歳
私がブロックしたいと思うのは、Facebookそのものです。
というか、実際、閲覧する頻度は激減し、チャーリーがTwitterで講じたやり口と似たような手法、私の場合はちょっとずつ新しい記事から削除するという、ジリジリとした後退戦といった方法ですが、そのようにして幽霊部員化を図りました。
アカウント削除まではしていませんが、無責任発言が許され、かつ、リアルグラフ濃度の希薄なTwitterや、趣味縁が心地好かった初期mixiのもつ、「ゆるさ」を愛する私にとって、Facebookのメイク決め決め感、ちょっとコンヴィニ行くにも着替えて出掛ける皆さんの気合いに、気圧されてしまい、誰をというわけではなく、Facebookそれ自体を総体的に遠ざけたくなった、ブロックしたくなったのでした。
そして自らの過去記事も封印しようと思い、先述のような、新しいものから少しずつ削除するという弱気な撤退をするに至りました。
現在は、全くFacebookを見ないわけではないですが、たまにしか見ていません。
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蟹ビーム
昔、社会は霧に囲まれた数々の山のようで、各コミュニティは山頂で身を寄せ合って生きていました。
ところが約10年前、新しい技術のおかげで社会は見通し良く平坦になり、僕らは浮かれてあちこちでお祝いをしました。
「世界の遠くで起こったおもしろい事まで見通せる!逆に僕が今ここでおもしろいことをすれば世界中が見てくれる!すごいすごい!世界はひとつになる!」
それから10年経って、僕たちはこの社会の見通しの良さが別の意味をもっていることに気がつきました。見通しが良すぎるのです!
もはや皆んなが皆んなを監視しているかのようです。
昔は、社会学村、デザイナ村、建築家村それぞれのコミュニティはそこで発言を行うには山を登っていかなければなりませんでした。
そしてその登山の間にその山のマナーを身につけ/教育され/洗脳され、頂上が見え始めたころにはトップの人たちの麓では珍妙に思えた発言や行動の意図が理解できるようになったのです。それが良いことか悪いことかは別として。
昔はその"山"が機能して自然な障壁になり、またそれが教育であり権威になっていたのだと思います。それが良いことか悪いことかは別として。
でも今はちがいます。すごい遠方からでも全く違う村のひとびとが突入してくるのです。
世界の見通しが良くなりかけてからしばらくの間、リテラシーの高いひとだけがいた時は「儀礼的無関心」として見通しのよさを自制する試みがありました。
ですが無理でした。ひとはみたいものを見るのですからね。
こうなってからはさあ大変、自然な障壁はないし、衆人環視のなか、自らで障壁をたてブロックをすることはめっちゃ意識的な行動として見えてしまうのです。
いままでのように仲良し同士で集まっていても指をさされるのです。一体どうやって生きていけば良いんだい?
【ブロック化を感じるか?】
小集団化しているかという話で言えば、それは昔からあった事象だと思います。
【ブロックするされた?】
障壁は昔は自然と存在していたのだと思います。でも基本が見透し良く繋がることになった現代で、
障壁は自分でたてるしかなく、その行為がえらく目立ってしまうのだとおもいます。
僕自身はブロックすることは一切なく、半匿名、匿名のアカウントを複数使うことによって障壁というか距離をとることにしています。
自分が気がついた消極的な?目立たない?距離の取り方はこれだけですね。
ブロックされたことはないと思います。もしくは気がついていない?
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いちじく 35歳男性
予告編でも多く話題に出ていた集団的自衛権と安保法制の議論。僕も関心を持っていて、こないだ勉強会的イベントに参加しました。この法案をどうジャッジしたらいいのか、何を判断材料にしたらいいのか、国際情勢や政治の現場で何が起こっているのか知りたいという思いを最近強く持っています。
いろんな参加者の人が意見を表明するイベントだったのですが、終盤になって「周りは関心を持ってくれない」とか「デモをしてる団体は伝え方が下手」「デモは意味が無い」など、法制の議論よりも手続きとか周りの空気についての話題になりました。
僕自身はこの政治的談義やニュースに関して、自分でジャッジして意見を持つことができる人間になりたいという一心なので、「周りの人がどうのこうの」みたいな話には興味がなく、そんな他人の事言うよりも、「自分は自分のできることをやったか。勉強したのか」ってことを大事にしたいと思っています。
なので、ブロック化して他人との区別を認識することで自分たちのやってることを満足させたりするよりも、島宇宙化して自分らの興味あることにのめり込むことが価値があると思っています。人は人、自分は自分とハッキリすることが僕の理想です。
でも、僕もそのまま「勉強しよう」と突き抜ければいいのですが、なかなかそういうカッコいい存在になることもできていません。
例えば、勉強して政治について意見を発信して、「意識高い」とか言われることを懸念しています。そうやって他人の価値基準にいつも試されることを恐れる自意識から抜け出せない自分です。
今年印象に残っているのは同性婚が合衆国で合法化された時に、Facebookでプロフィール写真をレインボーカラーにすることが流行りました。
僕も同性婚支持で知人にLGBTの人もいるので、プロフをレインボーカラーにしたのですが、そしたらフィードで「今回のことでレインボーカラーにするとか、不用意すぎる」みたいな意見が流れてきた時、ゲンナリしました。
「同性婚合法化!おめでとう!」って気持ちでやったら、そこにいちいちケチをつけられてしまう。そんなことまで気を遣わなければいけないんだろうか...と疑問に思ったものです。
「意識高い」論争もイヤで、別にお互いのブロックとブロックがどちらも傍から見れば「意識高くて大差ない」のに争いあってるような状況は、インターネット以前からあったことで、いまさらの話ではないのですが、ちゃーりーの「インターネットしんどい」に激しく同意しますw。
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鶴賀太郎 42歳 茅ヶ崎在住
予告編でcharlieが「オーソドックス」とか「正統」という話をしていましたが、自分なりに咀嚼すると、それはコンテクストを共有している人たち以外とのコミュニケーションは軋轢を生みやすいので、人々が避けがちになっているということなのではないかと思います。
そう考えて思い浮かべたのがベジタリアンの置かれている立場問題です。
一口にベジタリアンといっても、その背景にある思想から実践の方法まで様々なのですが、日本でベジーを実践する人が必ず直面する問題があります。
それは余計なおせっかいと、言われなき誹りです。
自分の考えに則って、好き好んでベジーをしているのに「痩せすぎだから少しくらいお肉食べた方がいいわよ」とか「このお肉美味しいから一口食べてみて、別に宗教上の理由じゃないから大丈夫でしょ?」といって無理に肉を食べさせようとする人がいたり、
「ちょっと神経質なんじゃない」とか「植物だって生きているんだから殺生だ」とか「ニューエイジエコかぶれが」のような感じで非難してくる人がいるのです。
実践者はそれなりの哲学や理論を持っていることも多いのですが、それらをいちいち説明するのは面倒ですし、説明したところで理解してもらえないことも多いので、極力自分がベジーであることがバレないようにする人が多いのです。
安全保障法案やサノケン問題に見られる昨今のブロック化の構造はこれに似ているのではないかと思いました。
一見ひとつのテーマについての議論をしているように見えながら、実は違うレイヤーで議論をしているので、話がいつまでたっても噛み合わないので、そのことをわかっている方が没交渉になっていくということです。
ただ話をベジタリアンに引き戻すと、海外ではベジタリアンは日本と比べるとかなり堂々と自分がベジタリアンであることを言います。
その違いがどこからくるのかを考えてみると、二つほど理由があるのではないかと思います。
一つは日本のお家芸の「同調圧力」です。
よく言われるように、生来村社会だった日本は合議を重んずるので、対立した意見に対する許容度が低く、すぐに同調圧力をかけたがるという問題です。
これゆえに建設的なディスカッションが苦手な人も多く、議論の場でも自分の意見を否定されただけなのに、人格を否定されたかのように憤慨するという未成熟な態度をとる面倒くさい人が多いので、ついつい自衛のためにブロックを作ってしまうのではないかという話です。
そしてもう一つは他宗教に関する寛容性の問題です。
何かと異教と接することの多い欧米の人は、他宗教の人を尊重したり、やり過ごしたりすることに長けています。
それに比べると日本には、思想にもひとつの正解があるというような幻想を持っている人が多く、結果それが他宗教に対する不寛容につながっているような気がします。
しかし欧米でも十字軍や様々な宗教戦争の歴史からもわかる通り、かならずしも始めから異教に対して寛容だったわけではなかったわけです。
たまたま陸続きであり異教の存在を意識せざるをえなかった上に、19世紀以降、科学技術や交通機関の発達によって地理的世界が狭くなったことによって、異教徒と折り合いをつける方法を見つけていったのではないかと思います。
今、ネットで起きていることも同じなのではないでしょうか。
ソーシャルメディアにより人々の内面が顕在化し、それがウォールやTLという自分のテリトリーに暴力的に入り込んでくるので、人々は折り合いの付け方を探っており、その中でブロック化が進んでいる気がします。
個人的にはブロック化よりもオープンな折り合いのつけ方ができればいいと思うのですが、一番大切なのは折り合いをつけるために不断の努力を続けることでしょう。
一度獲得した寛容性さえ、911以降のアメリカ、シャルリーエブドのフランス、そしてファイブアイズの盗聴を引き合いに出すまでもなく盤石ではありません。
ソーシャルメディアで狭くなった世界を再び広げることはできないわけですから、僕たちは新しい時代の寛容性を発明し、それを育んでいかなければいけないのだと思います。
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あんでぃ
ブロック化というテーマを聞いて、真っ先に連想するのは前々回の「ポジティブの現在、ネガティブの未来」です。キーワードは、「自分の手の届く範囲で」「性善説をベースにして」ということではないかと思います。そもそも、地理的な障害が交通を阻んでいた時代には宗教も慣習も、人種でさえも交わることが少なかった。それが徐々に地理的な障壁が失われ、さらにSNSの時代になって通信の障壁が失われてくると、もともとあった「局地的な知恵の蓄積」がその立脚する土地を離れたときに汎用性を失い問題を生じるようになってきます。そうすると、自分の身の丈にあった範囲でまとまり、自分に危害を与えない範囲でグループを作ろうとするのは必然ではないでしょうか。それが、広域においては宗教や国家の域内連携、そこから小さく国籍、政治思想、学問、アイドルファン、果ては家族、友人の最小系まであらゆる場面で生じているのだと思います。実際、僕が「世の中が「ブロック化」していると思う時」は、ニュース番組を聴いているときと、高校の友達と大学の友達をSNSで同時につながるか悩む時の二つです。
昔からずっとあったことのはずなのに、それがISの問題、TPPの問題、ヘイトスピーチの問題、ファンとファンの問題、デザインや憲法学の問題、あらゆる場面で「顕在化」しているのは、いずれも参入障壁が低くなったからで、SNS以前にまずGoogleが大きな影響を及ぼしていると思います。中途半端な可視化、文脈から切り離された言説、お金をかけずに得られるがゆえの浅薄あるいはバイアスのかかった情報、それらが浅薄あるいはキャッチーであるがゆえに数を集めやすく、暴力になりかわっていく。ところが、素人の考えは容易に矛盾に突き当たることも多く、先人の積み重ねによる交通整理は案外きちんと知れば納得のいくものです。
例えば、デザインの問題。複雑な絵画には著作物として、申請不要で強い保護を与え、簡単な図形を組み合わせただけのものには再利用性を高めることを優先して商標登録など申請されたものだけを利用期間に応じて保護する。そういう実用的な交通整理の仕方について知れば、エンブレム程度のものにそもそも著作権がない可能性や、似たようなものが重なる頻度の多さについても思いを馳せられるでしょう。それを、「正統な」あるいは「玄人が見れば」と片付けるのは説明が面倒だからという専門家の怠慢ということもあるのかもしれませんが、逆に前振りに出てきた安保法制のような場合は、国会答弁で憲法学者は一から説明しており、むしろオーディエンスがきちんと情報にアクセスしていないからこそ生じている問題でもあります。(安保法制が必要だと考える国際政治学者も、憲法に反することは多くの方が認めていて、溝はむしろなく、憲法改正すべきだ、という議論が論理的帰結になると思います。)
結局、参入障壁が低くなったことが「自分の手の届く範囲」が広くなったと錯覚させ、「性善説をベースにして」分野と分野、世界と世界のコラボレーションに興奮していた時期を過ぎて、私たちは自分の身の丈を知った、というのがブロック化が顕在化した原因なのではないでしょうか。次世代のネガティブは、現在のポジティブの興奮に疲れてしまったときに垣間見えるような形で、現れる存在な気がしています。
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鈴木登志雄
前期高齢者のリーマンです。
鈴木先生のIPPSモデルはまさに、「招待」と「参加」の部分に「ブロック」が組み込まれています。
表面的には並列化、共有化されたように見える平和で保守化した現在。
実はこの社会が根源的に持っている、根深い同調圧力のストレスが、特に共感力の強い、センシティブな女子たちに蓄積しているように思います。
この溜まったストレスから逃れるため、メンバー相互で結束、集団的自衛権を行使しているのはよく見かけます。
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のぶてん
このラジオを聞き始めて、4年目にして初めてメールを送らせていただきます。学生だった頃に聞き始め、一応にも社会人となり、いつの間にか会社では新人とも言えなくなっています。
今回、聞き専リスナーを脱すべく、拙いながらも、こういうことかな?とおもった事をメールします。
さて、予告にてテーマを聞きました。「ブロック」というフレーズには色々な意味がとれ、複数の文脈の交点のように自分も感じられます。ただ共通項は何だろうと思ったとき(予告内でもおっしゃってましたが)1つに、他者のアクセスや攻撃を拒む、といった「ブロック」2つに、固まりや集まり、といった「ブロック」前者はキック、パンチ、ブロックといったアクティブな単語として、後者はレゴや建築でブロック塀といった構造的なモノの単語としてみれます。
そういった前置きをしたら、今回のテーマが、「人々が他人と自らを構造的に分け隔てる」事によって起きる問題が、ここ10年のメディアやコミュニケーション環境などの変化に応じて、変容している...とった具合に感じられました。
また予告では「正統性」を求めているというような話もありましたが、おそらく構造的に何かを分別するとなると、より多くの人の同意形成が必要となるから、より大きな、体系や権威、集団や価値観への帰属があったほうがいいのかな、という感じがします。
古い年代の楽曲、昔はやっていたファッションの記事、偉い人の言葉、倫理道徳的なエピソードのシェアとか「僕はこの◯◯をもっています」「◯◯を知っている」「◯◯は△△だと考える」といった立場を表すみたいに。
余談ですが、人が「ブロック化」する、あるいは社会が「ブロック化」するときいた時、それは高校生のときにみた「攻殻機動隊」の冒頭文での「複合体としての個」や「Solid State Society」といったワードを思い出し、私個人はなんとなく「もしかして...」という感じがしました。