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「文化系トークラジオ Life のやり方」


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今週日曜日の放送テーマは「しょうらいのゆめ」

時間の放送は10月28日(日) 深夜25:30~
テーマは「しょうらいのゆめ」

ウェブ中継も実施しますので、ぜひ生放送でお楽しみ下さい。

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charlieです。
将来の夢は何ですか?と聞かれて即答できる人は、そうはいないですよね。僕たちはそれを当たり前のように受け止めますが、他方で、夢は持つべきだという考えも、当たり前のように持っている。ホンネとタテマエという奴でしょうか。

大人になればなるほど現実が見えてくるし、「夢」は「具体的な目標」や「解決すべき課題」に置き換えられていくものだと思います。でも、僕自身がそうなのですが、いまってどこか「夢を実現する」のではなく「実現できることを夢にする」感じなのかなと思います。確かに、空を飛ぶのも宇宙に行くのも可能になったいま、「実現不可能な夢を空想する」のも、そう簡単ではないのかもしれません。

そんなわけで今回は、「しょうらいのゆめ」(注1)をテーマに、いま「夢を見る」ってどういうことなんだろうという話をしていきます。個人にとっての夢だけでなく、「人類にとっての夢」のような、大きな話もしていきたいなあと思います。リスナーの皆様からは、「あなたの子供の頃の夢・いまの夢」をテーマに、メールを募集します。ご自身の年齢や今のご職業なんかも書き添えていただけるとありがたいです。
メールはlife@tbs.co.jpまで。
メールはなるべく当日夕方までには送ってくれると助かります。

注1:テーマタイトルは、前回のPodcast番外編でアフリにも貼った『ぼくのしょうらいのゆめ』という本からとったのですが、ひらがなにすると、なんか子供の頃の夢って感じがしていいなあと思います。
http://www.tbsradio.jp/life/2007/10/lifelifelife_and_1.html#more
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黒幕です。
おかげさまでこの番組も放送開始から1周年を迎えることが出来ました。
当初は土曜日の夜8時からの1時間の番組で半年間で終わるはずでしたが、リスナーの皆さんのおかげで放送時間を変えつつも2年目に突入できました。この番組なくなってしまうと僕もつまらなくなっちゃうので、とても嬉しいです。本当にありがとうございます。面白い番組を続けていくことでこのご恩に報いていく所存であります。

1周年といえば、今回の「しょうらいのゆめ」というテーマは同タイトルの本から取ったということをcharlieが書いていますが、実はこの『ぼくのしょうらいのゆめ』という本は、Lifeという番組が誕生するにあたって重要な役割を果たした本なんですよ。どんな役割を果たしたのかは、11月8日発売予定の『文化系トークラジオLife』(本の雑誌社)のあとがき「『文化系トークラジオLife』ができるまで」を読むとわかると思いますので、ぜひ読んでみてください。
http://www.tbs.co.jp/radio/stand-by/talk/thu/index-j7.html

それから、紀伊國屋書店新宿本店で開催中のブックフェアと11月11日(日)のトークイベントもよろしくお願いします。イベントの予約、チケットの購入はどうぞお早めに。
http://www.kinokuniya.co.jp/04f/d03/tokyo/jinbunya.htm

ちなみにcharlieは今週の放送のあと、夕方6時から慶応義塾大学で開催されるシンポジウムに登場します。charlieも大変ですが、面白そうなシンポですね。今回のテーマとも関わる部分がありそうな気も。
http://www.cinra.net/news/2007/10/22/102536.php


※スペシャルコンテンツ!
以前『Studio Voice』誌に掲載されたcharlieの文章です。
↓今回の放送テーマにかかわる内容です。

『Studio Voice』コラム

「奪われた未来」
「失われた10年」――ある時代を指すのに、これほどネガティブな言葉はないだろう。なにせ、この10年(実際には15年)は、「なかったこと」だと言われているのだから。
もちろん、真に失われたのは「来るはずだった」日本の経済成長だ。だが主語を持たないこの言葉は、そこにあらゆるものを代入することができる。たとえば、若者たちから未来の可能性が失われた、といったかたちで。巧妙なのは、そこに、「誰のせいで」失われたのかということに関する主語も不在であるということだ。「失わせた」のは誰か。もちろん、若者たち自身ではない。
なのに、主語を失したままの時代へのまなざしは、いつしか若者自身の気持ちも変えてしまう。朝日新聞がこの正月からキャンペーンを張っている「ロストジェネレーション」という語も、関係者によれば、25~35歳の若者に対するアンケート調査の中で出てきた単語なのだという。「失われた世代」というこの物言いは、ほんとうならば「奪われた世代」と言い換えるべきなのだろうが、そうした感覚は、若者たちから未来を想像する力と一緒に、誰かが奪ってしまったのだろう。
未来を想像する力が奪われるプロセスにおいて、子どもたちに対して、未来を想像し、人生を設計せよ、という論調が強まったことは、考えてみれば奇妙な話だ。いまや子どもたちは13歳で人生の選択を委ねられ、その責任を取らされる。子どもであろうと社会に出たら一人前として振る舞わなければならない、という規範の拡大は、一方で「粗暴で不適格な子ども」を外側へと排除しつつ、他方で「子どもであること」を子どもから剥奪する。ある世代から何重にも「奪われた」ものとは、別の人たちが、いつまでも大事に抱え込んでいるなにものかであるはずだ。
そうした状況では、「夢を見る」ことも容易ではない。実現不可能な目標を持つことは、今は「夢を抱く」とは言われず、馬鹿だと思われる。にも関わらず、もっとも手近なところで人生を決めようとすれば、「夢がない」と罵られてしまう。というより、馬鹿だと思われたり罵られたりすることに過剰におびえながら人生の選択を迫られているのが、今の10代の置かれた状況ではないか。
考えてみれば、「夢」という単語は、そもそも曖昧なものだった。かつて社会学者の見田宗介は、「現実」という語の対照として、「理想」が挙げられた時代から、「夢」の時代を経て、「虚構」の時代になったと述べたことがある。それを受けて彼の弟子大澤真幸は、その時代の転換点を1970年に求め、虚構の時代の極限としてのオウム事件へと繋がっていく感覚が、そこにあったのではないかと指摘した。彼らの議論において「夢」は、「理想」と「虚構」の間の、どこかふわふわとした、虚とも実ともつかない言葉として理解されていたのである。
その意味の曖昧さは、現在において「夢を持つ」という言葉の持つ曖昧さとして、そっくりそのまま受け継がれている。具体的な目標に向けて邁進することと、単にモチベーションを高めるための精神的ドリンク剤を服用するということ、どちらの振る舞いも「夢を持つ」と言われる。そして、安野モヨコ『働きマン』がそうであるように、その二つは分かちがたく結びついており、引きはがすことができないまま、彼らを突き動かすものになっているのである。
かつてと異なり、先の読めない時代において「夢を持つ」ことは、要するに、どんな無謀な目標であっても、自己責任で引き受けることを意味する。そうした振る舞いを咎めるのであるならば、「夢など持たずに、やりたくもないことを、生活のために引き受けなさい」と、正直に子どもたちに言うべきだ。かつて夢を持った自分を肯定するために、夢を見ることが困難になっている子どもたちにまでそれを押しつけるのは、大人たちの単なるエゴでしかない。
夢や目標を定められないことよりも、そのことによって「不適格な人間」だと思われることを、子どもたちはおそらく何よりも恐れている。それは何より、子どもたちから、未来を定めるまでのモラトリアムを奪った人びとの責任として、引き受けられなければならない。
(鈴木謙介)


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